2006年4月14日 (金)

ながいながいかみのおひめさま

ながいながいかみのおひめさまコーミラー・ラーオーテ 文  ヴァンダナー・ビシュト 絵
木坂 涼 訳   アートン

むかし あるところに 長い長い黒髪のパリニータというお姫さまがいました。ご両親の王様やお后様にとっても娘の黒髪は自慢の髪であり、毎日100人もの召使が彼女の髪を梳かしオイルを塗り、花や宝石で飾り立てました。ところが、その黒髪が重くてパリニータ姫は長く歩くことが叶いませんでした。いつもお城の窓から遠くの山々を見つめるだけでした。そうして姫の18才の誕生日が近付いて来ました。誕生日の前の晩に開かれた祝いのパーティーで王様は姫に、「お客の中から、1番勇敢で1番お金持ちで1番素敵な王子様と結婚するのだ。」と言いました。そこでパリニータ姫は・・・。

「うわー、ついにここまで来たかー」ってのが読後の印象です。
私達世代の女性にとって「プリンセス物語」というのは、どれだけ紆余曲折があっても結局のところ最後の最後で愛する王子様が現れてお姫さまを幸せにしてくれるものだったんですが、この絵本はとうとうそんな次元をも軽やかに超えて行ってしまいました。こうしてみるとホントに目からウロコです。どうして私達はあんなにも「王子様」や「幸せな結婚」に拘らなければならなかったのか。パリニータのように道はいくらでもあったのに。

あとがきで、訳者の木坂涼さんが《・・・この絵本は不思議な魅力にあふれています。書きだすといくつもあるのですが、一つに絞るとしたら、お姫様が途中のページからいなくなってしまうことでしょうか。普通、絵本の主人公は最後の最後まで絵の中にいますよね?ところが途中から、お姫様が消えてしまいます。・・・》という面白い着目点で語られていますが、その珍しい手法さえも暗示的に思えるんです。私達はいくらでも物語の主人公を降りることが出来る。それさえも決して難しいことではない、と。ラプンツェルも、パリニータくらい突き抜けた生き方を選ぶことが出来ていたら、また違った物語を紡げていたのに、と思わされます。

インドの絵本作家さんだけあって、絵もエキゾチックで魅力的です。細部にわたって描き込まれたパリニータの髪のなんと美しいことか。線だけで、こうも艶やかに輝いた髪を表現できるものなんだなーと感嘆。パリニータが消えてしまった後のページも絵の魅力が最後まで薄まらないところも素晴らしいです。

| | コメント (10) | トラックバック (1)

2006年2月16日 (木)

わたしのおふねマギーB

わたしのおふねマギーBアイリーン・ハース 作  内田莉莎子 訳
クェンティン・ブレイクの『みどりの船』の感想を書いてたら、どうしてもこの絵本の感想も書いておきたくなりました。2つの作品に共通するのは「船」。どうして絵本にはこうも「船」が似合うんでしょうか。 それも「空想の船」が。鉄道や飛行機、自動車といった数ある乗り物の中で最もロマンティックなのが船だと思うんです。なにしろこの気忙しい時代において船ほど時間を気にせず旅できるものはありません。ある意味、とても贅沢な乗り物だと言えます。また、道路や線路・滑走路といった人口の道の上も走らない。水の上という自然任せなところも想像を駆り立てられる。そんなわけで、船繋がりのマギーBを久々に開いてみたのでした。

これは おねがいが かなった おはなしです。

あーなんてウットリするような書き出し! 物語の最初にいきなりこの1行が飛び込んでくるんですよ。ホントに堪らないです。これはもう内田莉莎子さんの訳の素晴らしさとも言えます。まるでオルゴールの蓋を開けたような煌びやかな始まり方。あとはもう、ハースの魔法に従って夢の航海に連れ出して貰うのみ。たとえ途中で嵐が来ようとも、それすら期待の内です。

ハースの絵本の何が素晴らしいって、やっぱり「絵」に尽きますよね。スモーキーな水彩画で細部までロマンティックな小物が描き込まれ、とにかく愛らしい。絵本好きな女の子でハースの絵が苦手って人は滅多に(ほとんど?)いないんじゃないでしょうか。表情豊かな子ども達の柔らかい仕草がまるで音楽を奏でるように読み手に語りかけてきます。江國香織さんじゃないけれど、いったんこの絵本を開くと、閉じるのがせつなくなります。

ハースには関係ないのですが、船の上にミカンの木を植えていたり、サウスバードに似た九官鳥が描かれていたりと、もしかして『ワンピース』を描くにあたって尾田っちはこの絵本を見たのかな?などとちょっと想像してしまいました。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2005年11月29日 (火)

プーヤ・ライモンディ

たくさんのふしぎ 2005年8月号「プーヤ・ライモンディ」野村哲也 文・写真
たくさんのふしぎ 2005年8月号  福音館書店

ペルーのアンデスの山中に、100年にいちどだけ咲く、プーヤという花があるという。その花を求めてでかけた写真家が、4,000メートルを超す高地で出会った少女アンの家は、なんと、プーヤでできていました。大きな木があたりにないため、プーヤは生活になくてはならない植物だったのです。写真家と少女の家族の心温まる交流の物語。  《 福音館書店解説文より 》

最初は、「100年に1度しか咲かない花」というプーヤへの好奇心から読み始めたんですが、それがいつの間にか、アンデス山中の暮らしぶりの方へ感心が移って行ってました。4000メートルもの高地で、現代のワタシ達からすれば「ほとんど何も無い」ような暮らしを営むアルビーノさん一家。そしてそんな彼らの中にするりと入り込んでいく写真家の中村哲也氏。彼の文章を読みながらいつの間にか思い出していたのは故・星野道夫さんでした。もしかして星野さんに影響を受けて写真家になったのかなぁ・・・。
ワタシが中村さんに好感を持ったくだりは、

見知らぬ家に泊めてもらうとき、ぼくがいつも心がけていることがある。だされた食事は、残さす食べること。食後の洗い物は、かならず自分ですること。

郷に入っては郷に従えという相手を尊重する心は、日本人・外国人に関係なく人間同士の基本のように思う。写真に添えられた文章も淡々としているのに温かい。きっと中村さんも星野さん同様に素敵な写真家さんなんだろうな。これからの活躍にとっても期待してます!
垢を日焼け止めクリーム代わりにするアンデスの人々がいかに乾燥した場所で暮らしているか、中村さんの写真からもその乾いた空気が伝わってくるようです。アルビーノさん一家の顔写真がそれぞれにホントに味わい深い。氷河のトンネルはまるで近未来映画のセットみたい。それにしても、プーヤって「花」というよりも「木」「樹」みたいだよなぁ。いや、むしろサボテン? 1つ1つの花は小さくて可愛らしいけれど、プーヤとしての形状はあまりロマンティックなもんじゃないのがちょっと残念。


| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005年11月17日 (木)

ケルトとローマの息子

ケルトとローマの息子ローズマリ・サトクリフ 著   灰島かり 翻訳
ついにワタシもサトクリフ初体験。児童書好きの方々の間で常に人気の高いこの作者の物語をワタシもようやく味わうことが出来ました。いやぁ、素晴らしかった!圧倒的な筆力にただただ憑かれたようにページをめくるのみ。読み終えてすぐにサトクリフの他の作品も読みたくなって、図書館に走ったのは言うまでもありません。

紀元2世紀のローマ帝国時代、ブリテン島の辺境で主人公のべリックは難破船から奇跡的に助け出され、ケルトの戦士として育てられる。ところが成長し一人前として認められる目前に、部族に立て続けに不幸が襲い、ローマ人の血を引くべリックはその不幸の原因と見なされ、部族を追放されてしまう。打ちひしがれながらもローマ人としての誇りを胸に一路ローマを目指す。そんな少年べリックを待ち受けていたのは、想像を絶する過酷な運命だった・・・。

なにせローマ帝国時代の物語なんてまともに読んだことのないワタシが、いきなり放り込まれた世界だったので場面を想像するにも知識が足りない。つい『ヒストリエ』と『ヴィンランド・サガ』を足して2で割ったようなイメージを抱きながら読んでました。どちらも時代や地理がてんで異なることは百も承知ですが、当時の奴隷の過酷さや船の様子、部族で生きる戦士としての厳格さなんかはイメージとして使えたかも。

それにしても、主人公べリックを次々に襲ってくる試練は凄まじい。これでもかこれでもかとべリックの人間としての尊厳を踏み付けて行きます。生き地獄とはこんな状態を言うのか。希望に満ち溢れていたところに謂れの無い罪を被されて人の世の全てに絶望してしまう主人公が辿る物語は、山本周五郎の『さぶ』を思い出します。

ところがどんな絶望の淵にあっても、僅かな希望の光としてべリックを支えてくれる人々が現れます。奴隷時代にはルキルラ、逃亡中にはロドペ、ガレー船ではイアソン・・・。部族を追放されて以来自分を排除してきた「人間」に何の期待も抱けなくなったベリックが、心の支えとしたのはやっぱり他ならぬ「人間」だったということが唸らされます。

そして、べリックが命からがらに辿り着いた湿原で彼を迎え入れてくれた土木技師である百人隊長ユスティニウス。彼がまたとてつもなく魅力的な男なのです。浅黒く引き締まった顔に、北の海の色のような澄んだ灰色の目。都での地位や名声よりも土木技師としての誇りを持って湿原での暮らしを選び、失くした妻子を未だに愛する男。ベリックとはまるでお互いの欠けた部分を埋め合わせるピースのような存在。もし血が繋がっていることが親子の証というのなら、魂の繋がった彼らをなんと呼ぶのが相応しいか。ベリックの長く苦しい旅の果てにユスティニウスが待っていてくれたことで、ワタシもベリックと同様に深く満たされた思いで本を閉じることが叶いました。充足の1冊。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月12日 (水)

いすがにげた

いすがにげた森山 京 / 作   スズキコージ / 絵
この作品はポプラ社の「絵本おもちゃ箱」というシリーズの中の1冊なんですが、このシリーズのラインナップを見ると対象年齢はどうやら5~6歳前後ってところのようです。でも、この『いすがにげた』に限って言えば、子どもよりも大人の方が気に入るような気がします。いろんな経験を経た大人にこそ味わえる深みのある絵本。もちろん、動かないハズの椅子が野を越え山を越えして行く様はユーモラスで小さな子どもが読んで貰っても充分に楽しめる内容でもあります。

ある日おばあさんの家から1脚の椅子がなくなってしまいました。いつも軒下に置いている古い椅子です。「あんな古い椅子を持って逃げる人もいないだろうに」とおばあさんが不思議に思っていると、通りかかった猫が「あいつなら逃げてったよ」と教えてくれました。おばあさんはもうびっくりぎょうてん。椅子が自分で逃げるなんて! そこでおばあさんはしぶしぶ椅子を探し始めたのですが・・・。

森山京さんの創作文なのに、スズキコージさんがイラストを描いちゃうともうロシア民話にしか見えないところが凄いです。鍵鼻でギョロ目、腰も少々曲り気味のその容貌はまるで魔女か山姥。最初は逃げ出した椅子をいやいや探していたくせに、なかなか見つからないことに腹を立てヒートアップしていく様は、たとえ椅子じゃなくても逃げ出したくなるよなー、なんてね。しかし民話調の展開もここまで。物語のターニングポイントは、おばあさんと椅子が並んで寝そべって空を眺める場面で訪れます。このシーンはホントに素晴らしいです。大好き。
絵本にはよく「椅子」や「ソファ」が題材として扱われますが、あれはやっぱり、「自分の居場所」みたいなものを象徴してるんでしょうね。「居場所」というか、 《 いても良いんだよ 》 という存在の許諾というか。だからこそおばあさんは、走馬灯のように浮かんだこれまでの思い出に免じて椅子を開放してやろうと決心できたのだとワタシには思えました。自分の人生に納得がいっているからこその決別。
ちょっとネタバレ気味になってしまいましたが、ま、ラストは読んでから味わって貰うってことで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«終わらない夜