2005年6月12日 (日)

つきにでかけたおんなのこ

つきにでかけたおんなのこLa petite fille dans la luma (1998)
ジェラール・フランカン/作   堀江敏幸/訳   フレーベル館

主人公の女の子は、いつでもどこでも、「心ここにあらず」状態で、家族はそれを「お月さまに出かけている」と言ってからかいます。パパもママもお姉ちゃんも弟も、女の子のことを言いたい放題。ある日、ついに女の子は頭にきて、本当にお月さまに家出してしまいました。お月さまは女の子にとって、この上ない居心地の良い場所でした。家族たちの心配を他所に、月での暮らしを楽しむ女の子。月に住む不思議な人々とも仲良く遊び、まるで退屈しませんでした。ところが、ある日、満月が家の前を通った時に、パパとママの元気の無い様子を見てしまったのです。女の子は、とうとう決心しました・・・。

最初にこの絵本を図書館で手に取った時、「この絵、好き!!」と直感的に思いました。いわゆる一目惚れです。筆の跡が残る厚みのある塗り方と、しっとりした色使い。特に多用されている肌色は、まるで本物の「白人の女の子の頬」のように瑞々しく透き通っています。
さて、絵には一目惚れのこの作品。読んでみて、気にかかったことがありました。それはこの女の子には名前が無いということです。お姉ちゃんや弟には名前があるのに、いったいそれは何を意味しているのでしょうか。
それから、女の子の着ぐるみのような服装と月の不思議な住人たち・・・。この2つのキーワードに、わたしはセンダックの『かいじゅうたちのいるところ』を連想しました。『かいじゅうたち…』のマックスも、着ぐるみのような服を着て、ママから遠くはなれた場所へ行って、かいじゅうたちと楽しく過ごしていました。しかし、マックスの場合、ママのことが少しばかり恋しくなって帰途に付くのですが、この女の子はそうではありません。家族がかわいそうだから、自分は我慢して戻る決心をしたのです。そこがなんとも釈然としないラストになってしまう原因なんですが、せめて、戻ったあとの女の子が、家族を愛し愛されて幸せになることを祈らずにはいられません。

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ぼくを探しに

ぼくを探しにシェル・シルヴァスタイン作   倉橋由美子 訳   講談社
THE MISSING PIECE (1976)

部分的に欠けた円の「ぼく」は、その欠けた部分を探しに旅に出ます。旅先で他のいろんな円や、カケラ達に出合いますが、なかなか自分の欠けた部分にちょうど当てはまるカケラに出会う事は出来ません。それどころか、欠けているせいで、転がるにもスピードが出ず、みみずとお喋りしたり、花の匂いを嗅いだり、カブトムシと遊んだり、道草もいっぱい。やっと出会った何個かのカケラとも、上手く行かなかったり、いろんな障害が待ち受けています。そしてとうとうある日、ついに自分にぴったりのカケラと出会ったのです! ところが・・・。

あまりにも有名な、この作品。きっと読まれた方も多いことでしょう。  
作者のシルヴァスタインは残念なことに1999年に他界されてしまいましたが、彼の遺した多くの作品たちは年齢・性別を超えて多くの人を惹き付けています。特に、若い男性にファンが多いのは、絵本界では特筆すべき事ではないでしょうか。全ページ、白の背景に、黒い線で単純に描かれただけの落書きのような絵。そのシンプルさが, 可愛い系が苦手な男性読者にも、受け入れられ易い要因なのかもしれません。

さて、この円が探す「カケラ」とはいったい何を暗示しているのでしょうか。訳者のあとがきによると、例えば理想の女性を追った男の話としても読んでも構わないのでは?ということも具体的な例として挙げられています。確かに、愛情の対象としても成立しうる物語です。
しかしわたしは、このカケラはきっと他者ではないと思うのです。これは、自分の内側にあるもの(あるべきもの)ではないか。だからこそ、体から離れたものはもう2度と元には戻らない。その、ある種の喪失感がカケラを追い求めてしまうように感じるのです。

わたしはこの絵本と高校生の頃に出会いました。あの頃は、自分を理解してくれる、自分を受け止めてくれる存在を追い求めて、カケラを探していました。つまり、自らの満たされない部分を埋め合わせてくれる相手を探していたのです。しかし、あるときふっと思ったのです。そんな幻想を探すのではなく、きっと他にもわたしと同じようにカケラを探している人がいるはず。カケラそのものを探すのではなく、カケラを探している人とめぐり会いたい!

この作品を読むと、非常にせつなくなります。誰しも、満たされない部分を抱えて、折り合いをつけて、人生という道をころがっているのだなって。でも、それはけっして『一人ぼっち』という意味とは違うのですよね・・・。



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オレゴンの旅

オレゴンの旅ラスカル/文   ルイ・ジョス/絵   山田兼士/訳  
セーラー出版(1995)   LE VOYAGE D’OREGON (1993)

デュークは顔を真っ白に塗って大きな赤い鼻を付けたサーカスのピエロです。彼は、サーカスで曲芸をするクマのオレゴンと出会いました。ある日、「ぼくを遠い森まで連れてっておくれ。」とオレゴンから話し掛けられて、彼らの長い旅が始ります・・・。

おそらく、わたしがこれまで手に取ってきた絵本の中でも1~2を争う大好きな1冊です。
映画のジャンルには、「ロードムービー」というのがありますが、この作品は言わば『絵本版・ロードムービー』だとわたしは思います。朗読をするなら、男の低い声でつぶやくように、BGMにはJAZZを使いたい。表紙にもなっている、一面金色に実ったトウモロコシ畑に佇む、オレゴンに肩車されたデューク。夕暮れ時の薄紫色の空。ルイ・ジョイスの絵が見事なまでに読み手を圧倒していきます。

ぼくの赤い髪は風になびいて、
ぼくは突っ切っていく、ヴァン・ゴッホの風景のなかを・・・。
もっと美しい場所へと。

この場面の気の遠くなるような美しさといったら、とても言葉では言い尽くせません。ストーリーは小さな人向きではないかもしれませんが、この美しい絵から感じ入るものもきっとあると思うのです。
デュ-クは、自分もオレゴンと同じように、ここ(サーカス)は自分が居るべき本当の場所ではない気付きます。でも、実際にサーカスを出て行く時、ピエロのメーキャップを取れないデュ-ク。自分自身を否定して、コンプレックスにがんじがらめになってたのかもしれません。でも、旅の途中でいろんな人たちと出会うことで、いろんな人生の旅があることに気付いていきます。「世界一でかい国で黒人やってるのは、楽だと思うかい?」とデュ-クに尋ねたスパイクもその1人です。そして、旅先で初めて目にする自然の真実の美しさ。世界の広さ・己の矮小さを実感する瞬間の連続です。
ラストの、デュ-クの後姿と、置き去りにされるピエロの赤い鼻。今にも「ロードムービー」のエンドロールが流れだしそうな見事な幕の下ろし方に、何度読んでもわたしは、ページを閉じることが出来なくなってしまうのです。

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