2005年11月17日 (木)

ケルトとローマの息子

ケルトとローマの息子ローズマリ・サトクリフ 著   灰島かり 翻訳
ついにワタシもサトクリフ初体験。児童書好きの方々の間で常に人気の高いこの作者の物語をワタシもようやく味わうことが出来ました。いやぁ、素晴らしかった!圧倒的な筆力にただただ憑かれたようにページをめくるのみ。読み終えてすぐにサトクリフの他の作品も読みたくなって、図書館に走ったのは言うまでもありません。

紀元2世紀のローマ帝国時代、ブリテン島の辺境で主人公のべリックは難破船から奇跡的に助け出され、ケルトの戦士として育てられる。ところが成長し一人前として認められる目前に、部族に立て続けに不幸が襲い、ローマ人の血を引くべリックはその不幸の原因と見なされ、部族を追放されてしまう。打ちひしがれながらもローマ人としての誇りを胸に一路ローマを目指す。そんな少年べリックを待ち受けていたのは、想像を絶する過酷な運命だった・・・。

なにせローマ帝国時代の物語なんてまともに読んだことのないワタシが、いきなり放り込まれた世界だったので場面を想像するにも知識が足りない。つい『ヒストリエ』と『ヴィンランド・サガ』を足して2で割ったようなイメージを抱きながら読んでました。どちらも時代や地理がてんで異なることは百も承知ですが、当時の奴隷の過酷さや船の様子、部族で生きる戦士としての厳格さなんかはイメージとして使えたかも。

それにしても、主人公べリックを次々に襲ってくる試練は凄まじい。これでもかこれでもかとべリックの人間としての尊厳を踏み付けて行きます。生き地獄とはこんな状態を言うのか。希望に満ち溢れていたところに謂れの無い罪を被されて人の世の全てに絶望してしまう主人公が辿る物語は、山本周五郎の『さぶ』を思い出します。

ところがどんな絶望の淵にあっても、僅かな希望の光としてべリックを支えてくれる人々が現れます。奴隷時代にはルキルラ、逃亡中にはロドペ、ガレー船ではイアソン・・・。部族を追放されて以来自分を排除してきた「人間」に何の期待も抱けなくなったベリックが、心の支えとしたのはやっぱり他ならぬ「人間」だったということが唸らされます。

そして、べリックが命からがらに辿り着いた湿原で彼を迎え入れてくれた土木技師である百人隊長ユスティニウス。彼がまたとてつもなく魅力的な男なのです。浅黒く引き締まった顔に、北の海の色のような澄んだ灰色の目。都での地位や名声よりも土木技師としての誇りを持って湿原での暮らしを選び、失くした妻子を未だに愛する男。ベリックとはまるでお互いの欠けた部分を埋め合わせるピースのような存在。もし血が繋がっていることが親子の証というのなら、魂の繋がった彼らをなんと呼ぶのが相応しいか。ベリックの長く苦しい旅の果てにユスティニウスが待っていてくれたことで、ワタシもベリックと同様に深く満たされた思いで本を閉じることが叶いました。充足の1冊。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月29日 (木)

つるばら村のくるみさん

つるばら村のくるみさん茂市 久美子/作  中村 悦子/絵
次男の国語の教科書 ( 東京書籍 ) に「ゆうすげ村の小さな旅館」という単元があり、1学期によく音読の宿題で次男が読んでいました。他人から本を読んでもらう機会の少ないワタシにとって、子どもの音読の宿題は密かな楽しみの1つなのですが、この「ゆうすげ村~」は、 《 小さな旅館を営むつぼみさんのもとにお手伝いに来てくれた人は、実は・・・ 》 という、どことなく安房直子の『うぐいす』を彷彿とさせる印象的な物語でした。それで機会があれば茂市さんの他の物語も読んでみたいなあと思ってたのですが、図書館にずらりと並んでましたよ、「つるばら村」というこれまたステキなシリーズが。

つるばら村でくるみさんが営むパン屋さん「三日月屋」は最近売り上げが落ちていました。どうやらライバル店がオープンしたようです。ライバル店の様子を気にするくるみさん。ところがたぬきの兄弟と立ち話をしたときに話題に登った「プリンパン」のことでヒントを貰ったくるみさんは再び自身の原点を見つめなおします。すると・・・

本当はこのシリーズの初っ端は『つるばら村のパン屋さん』なのですが、知らずに3作目であるこの本を先に読んでしまいました。でもそれも良かったみたい。作者の茂市さんも巻末で 《 シリーズ3作目ということで、お年頃のくるみさんにそろそろ良いお相手を 》 と語っておられますが、くるみさんにも気になる男性が登場します。ちょっと「天然」気味なくるみさんがこれを「恋」に変えるまではまだだいぶ時間がかかりそうですが、それもまたシリーズを読んでいく楽しみになりました。
キャラメルで作るプリンパン、雲のアルコール、ヒマラヤの岩塩、白樺の樹液シロップ、黒豆あんパン、そしてライ麦パンのサンドイッチ。くるみさんが作るパンのレシピの数々は本当に美味しそう。読みながらお腹の虫も鳴ってきます。しかしこの物語の魅力はそれだけじゃありません。くるみさんの三日月屋さんに懸ける情熱こそが、このシリーズを支えている柱だと思うのです。いかなる時も企業努力を怠らないくるみさん。レシピこそ空想のものが使われることがありますが、くるみさんの「仕事」への姿勢は決して子供だましじゃありません。時に厳しく、時に利益を度外視して、本当にパン屋さんという仕事を生きがいにしているのだなあと、その情熱をまるで我が事のように見守りたくなってくるんですよね。
中村悦子さんの挿画も物語の大きな魅力の1つです。ワタシは中村さんの絵を見るたびにアーディゾーニを思い出します。質素で控えめで穏やかで、それでいてロマンティックで。くるみさんの良きパートナーである猫のニボシがお店番をする表紙絵は、木製の額に入れて飾ったらどんなにステキだろうと思うのです。
さて、次に図書館に行ったら必ず残りのシリーズ本を借りて来なくっちゃ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月 2日 (土)

『チョコレート工場の秘密』

チョコレート工場の秘密ロアルド・ダール/作   クエンティン・ブレイク /絵
優等生の読書感想文なら、《 チャーリーは貧しくてもお利口だったので、ワンカさんの大チョコレート工場を貰うことが出来ました。あんな大工場を貰えて、チャーリーが羨ましいです。 》なーんてことを書かなくっちゃいけないんだろうな。もっとも、黄金切符が当るまでのチャーリー(バケツ一家)の極貧ぶりは凄まじかったし、あのままだったら家族7人いずれ飢え死にしていたのは間違いない。そういう状況下でのワンカ氏の申し出は、天の助けに他ならないのだけれど、だからと言って果たして諸手を挙げて喜んで良いんだろうか。

わたしは正直、この物語が怖かった。黄金切符が当った5人の子ども達のうち、4人までがとてつもない酷い目に遭う。チョコレートの川に落ちた挙句にガラス製の管に吸い込まれたり、全身ブルーベリーになって除ジュース機で絞られたり、焼却炉に続くダストシュートに落とされたり、電波状に分解されて3センチほどの小人にされてしまったり。クエンティン・ブレイクがすっ呆けた挿画を添えているので漫画っぽく面白おかしく読めるけれども、一歩間違えればホラーにも成りかねない。

おまけにワンカ氏は、酷い目に遭った4人の子ども達を自己責任とばかりに冷たい扱いをする。ウンパッパ・ルンパッパ人たちも奴隷同然。住むところを奪っておいて工場で働かせ、人体実験にまで用いる。工場で作っているお菓子だって、ワンカ氏の好奇心の産物ばかりで、決して世の子ども達のために作っているわけではない。考えれば考えるほど、このワンカ氏という男は不気味な存在なのだ。

ところがチャーリーは、そんなワンカ氏の従順な跡継ぎとして白羽の矢が当ったことを大喜びする。ここが解せない。ホントにこんな工場が欲しいのか? ほんとにワンカ氏の跡継ぎなんかになりたいのか? ウチの子たちは3人とも口を揃えて「いやだ」と言ってたよ。40年前の子ども達なら大喜びしたんだろうか。実際に、この作品はどんなふうに読んだら正しいんだろう? (正しい読み方なんてあり得ないのを解かって言ってみる) わたしの希望としては、チャーリーには、この巨大な工場を手に入れたあかつきにはワンカ氏を排除するくらいの野心を持って欲しいよ。

もうじき映画も公開されるが、この物語がどんなふうに解釈されたのか、じっくり観てみたい。


| | コメント (6) | トラックバック (2)

2005年4月27日 (水)

『びりっかすの神さま』

びりっかすの神さま岡田淳 作・絵  偕成社
この作品を読み終えて思うのは、現役の小学校教師である岡田さんがよくぞこれを発表したなぁということ。児童文学ながら一歩間違えれば現場批判に成りかねない問題作だとわたしは思う。もし今実際に教師をなさっている方々がこの物語を読んだら、作中で過度に成績を重視する担任教師の学級運営を「ありえない」と一言で片付けてしまうかもしれない。が、あの担任教師だっておそらく「児童のためを思って」という大義名分を掲げているのではないか?「児童のため」ならば競争を促し、一歩でも他者より抜きん出ることを推奨するのではないか。岡田さんは、そんな教師の誰もが陥りやすい罠をさらりと皮肉りながら、理想と現実の狭間で揺れ惑う教師の姿をも浮き彫りにしていると思う。

4年生の木下始は父親を亡くしてお母さんと二人で暮らすために転校する。ところが転校先のクラスは教室の座席が成績順になっていた。勉強に限らず運動も給食を食べる早さまでもが競争というクラス。そんな教室で、始は信じられないものを目にする。それが「びりっかすさん」との出会いだった・・・。

この物語の感想を「読書感想文」的にまとめるなら、「1番になるために、他人より抜きん出るために頑張るのではなく、自分の持てる力の全てを出し切るために努力することがいかに大切なのかよく分かりました。」といったところか。まぁそのあたりの優等生的感想文は読者層である児童たちに任せるとして、大人であるわたしは、そんなきれいごとでこの物語を片付けたくはない。
現実問題として、頑張ろうが頑張るまいが「学校」においては順位はあらゆる場面で付きまとう。もし本気で頑張りさえすればまったく成果が上がらなくても満足なのか、と言えばそれは甚だうそ臭い話になってしまう。それは社会においても言えることで、競争の名の下に価格の低下や製品精度の向上という恩恵を被りながら、一方では自分達の人生を重苦しいものにしてしまってもいる。
岡田さんは、そんな「矛盾」を描きたかったのではないか。理想と現実、本音と建前。人はいつもその間を揺れ惑う。「びりっかす」の正体を岡田さんがあのように設定したのも、そんな人間の揺れる気持ちを具象化したかったのではないか。

と、いつもながら、本筋から離れた感想になってしまいましたが、これから読む方には、ラストの思いがけない展開をたっぷりと味わってほしいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月 3日 (木)

『霧のむこうのふしぎな町』

霧のむこうのふしぎな町柏葉幸子 作  竹川 功三郎 絵
小学校6年生のリナは、お父さんから勧められて銀山村というところで夏休みを過ごすことにする。ピエロの枝のついた傘を手に、リナは一人電車に揺られ、銀山村のある駅に降り立つ。ところが、駅から遠く離れたその村は「霧の谷の町」という別名を持つ風変わりなところだった。リナを迎えた下宿屋のピコットばあさんは皮肉屋で、「働かざるもの喰うべからず」というルールをリナに言いつけるのだった・・・。

『千と千尋の神隠し』の元になった作品らしいという好奇心で読み始めたのだけど、最初、リナがお父さんから銀山村で夏休みを過ごすことを勧められて、その村まで一人でなんとか辿り着いたところまでは、本当に物語の世界に引き込まれた。一人で駅に降り立った時の不安。道を尋ね尋ねようやくリヤカー付き耕運機に乗せてもらった時の安堵感。せっかく遠くまではるばるやって来たのにその村がないかもしれない残念な気持ち。いきなり不思議な町に放り込まれた驚き。そういった「普通の6年生の女の子」としてのリナの様々な思いが手に取るように伝わってきて、(この先いったいどうなっちゃうんだろう!?)と、大きく期待が膨らんだ。

ところが、いざ「霧の谷の村」の生活が始まると、リナに厳しく当るピコットばあさん(厳しいと言ってもせいぜい皮肉を言う程度なのだが)以外、リナに好意的な大人ばかりに囲まれ、毎日美味しい食事と美味しいおやつを食べ、仕事もそう大したものは与えられず、楽しいばかりの日々が過ぎていく。読みながらきっとこの先どこかで試練が待ち受けているのだろうと期待していたのに、とうとうそんな展開は無いままだった。正直言ってぬるい。

リナは、何の為にこの町にやって来て、どんなものを得て、どれだけ成長できたのか、物語からはちっとも伝わってこない。リナが来年またこの村に戻って来たがるのも、そりゃこんな竜宮城みたいなところなら無理はない。誰だって現実逃避したいに決まってる。

だから、『千と千尋の神隠し』のような成長物語を期待せずに、例えば6年生程度の女の子が読んで喜ぶような(途中、わがままな王子様に惚れられる、という場面もあるように)、少女小説として読めば良いのかも知れない。思いの他、なんとも辛口感想になってしまったけれど、最初の導入部分が面白かっただけに、後半の失速感が本当に残念でならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月25日 (金)

『雪の林』

雪の林やえがしなおこ 作  菅野由貴子 絵  ポプラ社
2月21日付けの朝日新聞朝刊で、松谷みよ子さんらが主宰する「びわの実ノート」という童話同人誌の記事が載っていたのだけれど、その記事の中で紹介されていた『雪の林』という作品を、ちょうど図書館で借りていたので読んでみた。
作者のやえがしなおこさんはわたしと同世代の方で、小学校6年生の時に宮沢賢治の作品と出会って作家を志すようになり、主婦業のかたわら創作を続けてきたそうだ。『雪の林』は全部で6篇の短編からなるもので、一篇一篇が、動物や植物と共に山野で生きる人々の控えめな優しさに溢れている。わたしが特に気に入ったのは「鬼のくれた赤い稲」と表題作の「雪の林」の2篇。

「鬼のくれた赤い稲」は題名からも解る様になんとなく「泣いた赤おに」のせつなさを彷彿とさせる物語。冷夏で米が不作となった村で、人々を救いたい一心で鬼のところに食物を分けて貰いに頼みに行く決心をしたカヨ。果たして彼女が出会った鬼とは・・・。
カヨがおそるおそる「おめ、鬼か。」と尋ねた時の鬼の返答に、思わず胸の奥がぎゅーっと締め付けられた。そうだよね、鬼自身はきっとそう返事するよね。この鬼の一言で一気にわたしはこの鬼のことが大好きになってしまった。

そして「雪の林」は、長沼のばあさんと呼ばれる沼の主にまさか姿形がそっくりな娘が4人いるとは知らずに、その一人に恋をしてしまった可哀相なカワセミの物語。
四季折々の自然の美しい色合いが、読みながらそれはもう浮かんでは消え浮かんでは消えと、頭の中に映像のように映し出されていく凄さ。作者のやえがしさんの筆力が最も如実に現れている作品だと思う。

実はわたしがこの本を図書館で借りたのは、表紙に惹かれてのことだった。藍色に冴え渡った冬の空をユキドリが「こくこう こくこう」とハミングしながら飛ぶその装画に、つい本に手を伸ばしていた。いわゆる「ジャケ買い」は、今回も当ったという訳だ。作中にはモノクロの挿画が随所に添えられていて、そちらも合わせて味わえるのが嬉しい。

巻末に、砂田弘さんが「賢治の世界を引き継ぐ」という解説を寄せられているが、わたしには宮沢賢治とはまた別に、鮮やかな色の妙手と言う意味合いで安房直子さんにも通じたものを感じた。もっと彼女の作品を読んでみたい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004年5月30日 (日)

『のっぽのサラ』

今月読んだもので、なかなか感想を書けなかったものをぼちぼちと・・・。
しかし、「本の感想」というのは、いざとなると難しいもんだなぁ。
よく、食べ歩きのレポーターが「美味しい!」の他に余計な形容をダラダラと喋ってるけれど、考えようによっちゃ、「本の感想」もそれに似てるのかも。「面白い」作品には「面白い」だけでいいんじゃないか、なんて思うこともある。
*** *** ***

のっぽのサラ
『のっぽのサラ』   パトリシア・マクラクラン 作
金原瑞人 訳   中村悦子 絵   徳間書店

アンナとケレイブという姉弟とお父さんの住む大草原のど真ん中の家に、ある日サラという女性がやってくる。彼女は、お父さんの「結婚相手、求む」という新聞広告を見て、一緒に暮らせそうか、試しにやってきたのだ。アンナもケレイブも大喜び。すぐに二人はサラのことが大好きになるのだが、果たして海の好きなサラがこの大草原に残ってお父さんと結婚してくれるのだろうか・・・。

読み始めたとたん、アンナとケレイブ姉弟のまだ見ぬサラへの思慕が一直線にサラに向かって溢れ出していく様に圧倒された。お母さんが亡くなったあとお父さんと3人だけで、広大な大草原で寄り添って生きてきた姉弟にとって、新しい家族になってくれるかもしれぬサラへの期待はあまりにも大きい。

読者もいつのまにか姉弟と一緒にサラの登場を心待ちにし、実際に現れたサラを日々知っていくうちに一段と彼女を好きになり、そしてこの大草原に残ってくれるように祈る。まさに読み手は姉弟と一心同体となる。

しかし、今のわたしならサラとも一心同体になれるのだ。彼女の揺れる気持ちは、海が単に恋しいわけではない。海に象徴される「これまで自分が歩んできた人生」を捨てなければならないことが悲しいのではないか。小中学生がこの作品を読んだとき、(早くサラが決心してくれればいいのに)と思うかもしれないが、ここでサラが揺れ惑うからこそ、大人が読んでも共感できるのだと思う。

ちょっとアーディゾーニを彷彿とさせる中村悦子さんの挿画も素晴らしい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004年5月29日 (土)

『貝の火』 宮沢賢治


貝の火
宮沢賢治 作  ユノセイイチ 画
兎のホモイは、ある日偶然にヒバリの子の命を助けてやる。それに感謝したヒバリの母親が、ホモイの元にお礼として、王様から贈られたと言う宝珠「貝の火」を届ける。「貝の火」とはいったい・・・。

堀江敏幸の『熊の敷石』の中で、主人公が、ユダヤ人の友人ヤンとの間に共有される感情を「貝の火」に例えていたことで読んでみたくなった物語。先日テレビで見た『世界遺産』のモンサンミシェルもそうだったけれど、ひとつの物語を読んで、好奇心の枝葉がどんどん広がっていくことがけっこうある。それも物語を読む幸福の一つだ。

読み終えて一番に思ったことは、この「貝の火」という宝を絵で表わす困難さだ。『熊の敷石』では、「貝の火」のことを、《それじたい触れることのできない距離を要請するかすかな炎》と表現していたが、絵となると色で表現するしかない。この「かすかな火」を如何に描くか、画家として「腕の見せ所」と言うか、この困難さこそが「画家冥利に尽きる」と言うところか。

わたしが読んだこの童心社の『貝の火』は油野誠一氏が絵を担当されているが、「貝の火」を単体で丸ごと捉えたページがある。それはもう、妖しくもどろどろと色や濁りが渦巻く中に気泡が浮かんでいるような霞が漂っているような、なんとも摩訶不思議な珠。まるで珠の中からなにやら浮かび出てきそうな気配を感じるほど。さすが油野氏、素晴らしい表現だと思う。

それにしてもこの物語。
宮沢賢治の作品の中でも教訓的な色合いが濃いそうだけど、読んでみる限りではあまり気にならない。ホモイの凡庸さは、われわれ多くの鏡だし、きっと「貝の火」を長く留め置ける人の方が少ないはずだ。わたしたちはこの先もきっと、ホモイの失敗を何度でも繰り返す。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年4月22日 (木)

『学校ウサギをつかまえろ』


学校ウサギをつかまえろ
岡田 淳 さく・え   偕成社
童話館のぶっくくらぶで『小さいりんご』コースの配本で届いた本です。『小さいりんご』コースというのは一応9~10才向け。数日前から寝る前の読み聞かせで1章づつ読んできて(我慢できずに2章読んだ日もありましたが)、昨夜とうとう読み終えました。

いやぁ、本当に面白かった。言葉、挿画、物語の展開、こんなにワクワクしながら読めた児童書って、もしかして初めてかもしれない。物語は単純明快、学校の飼育小屋から抜け出した一匹のウサギを小学4年生の子たちが捕まえるまでのとびきりシンプルなものなんですが、これが驚くほどとびっきりの冒険物語なんですよね。この物語を読むと、UFOや妖精や地下洞窟といったファンタジックな装置なんて、特別何も必要ないんじゃないかって思えてきます。ごく普通の日常生活の中でこれだけの冒険が描けるんですから。

この物語の最大の魅力は、登場人物の一人一人がとても具体的にイキイキと息づいていること。主人公の恭をはじめ、誰一人キャラクターが被ることなく、この子だったらきっとこう動くだろう、こう喋るだろうという、いい意味で読者を裏切らない。っていうか、これだけそれぞれの性格付けが完成されていたら、むしろ作者の手を離れて、登場人物たちが勝手に動いてくれたんじゃないかっていうくらいのリアルさがあります。
そして、作中唯一の大人である工事現場のお兄さん。この男がまたいい奴なんですよねえ。若いのに、これぞ「大人」の鏡、ってな奴です。わたしたち大人は、こうありたいな、って思えるような人。
こうしてみると、登場人物といい、織り込まれるエピソードの一つ一つといい、展開といい、本当に見事にがっちりと組み合わさって物語が出来上がっています。何一つ無駄がないし、シンプルだし、それでいて最高のものができている凄さ。作者の岡田 淳さんの筆力にただただ脱帽。

我が家は童話館で配本して貰うようになってから今年で11年目になり、そろそろ退会しようかと思ってたんだけど、こうした良質の児童書を紹介して貰えるのなら、やっぱりもうちょっと続けてみようと、前言撤回。(笑)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004年4月10日 (土)

ママは行ってしまった


ママは行ってしまった
  『ママは行ってしまった』  
  クリストフ・ハイン 作  
  ロートラウト・ズザンネ・ベルナー 絵    
  松沢あさか 訳   さ・え・ら書房


可愛い表紙絵に惹かれて図書館で借りてきた3月の新刊でしたが、内容は、家族の死を扱ったとても重いものでした。家族5人が幸せに暮らしていたある日、主人公のウラのママは病いに倒れ、まもなく死んでしまいます。ウラと二人の兄と彫刻家の父の残された4人はその現実に打ちひしがれてしまいます。しかし、新しい出会いや、家族旅行を通してやがて、ママの不在を受け止め、乗り越え、「未来」を見つめるまでに立ち直っていく物語。


わたしが驚いたのは、パパが、ママの臨終に子ども達を立ち合せなかったこと。「お前達の思い出の中で、ママには生きていて欲しいんだよ。死んだママではなくて。」そう言ってパパは、子ども達にママの遺体を決して見せませんでした。日本では、死にゆく人を見送るために必ず、親しい人は臨終に立ち合います。「死に目にあう」というのは、最後の別れをするために大切な儀式だと思うのですが、そこはお国柄の違いなのでしょうか。(ちなみに、舞台はドイツ)


それから、ママが亡くなって、入れ替わるように物語の核となっていくのが、パパが製作中だったピエタ像です。大司教との親交や、パパがその製作に込めた想い、そして、完成した10トンもの巨大な像を運ぶ旅・・・。後半のピエタ像との関わり合いは、まるで詳細なドキュメンタリーを見ているようです。特に、トラックで数日かけて巨像を運ぶ場面は、以前テレビのニュースで見た、新幹線の車両を一般道を使って搬送した映像を思い出すほど、リアルでした。

  《 いま不幸なのは、いつかとてもしあわせだったせいなのだから。 》

ママの死を受け入れ、ついには、家族で未来を語り始めるラストシーン。あたたかい毛布でくるまれる様な、心地よい読後感にひたれる作品です。
関連記事 → 産経WEB 『ママは行ってしまった』

| | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧